人権侵害とその歴史

1907年(明治40年)から1996年(平成8年)までの90年にわたり、ハンセン病患者・元患者さん達は国の強制隔離・患者撲滅政策の対象とされ、「人間」として享受すべき人権を根こそぎ奪われてきました。このページでは、ハンセン病患者・元患者さん達が受けてきた人権侵害の歴史をわかりやすく示しています。

ハンセン病とは

療養所内風景

皆さん、ハンセン病という病気をご存じでしょうか。写真は、その回復者の方々の現在の療養所内での生活写真です。現在全国15の療養所内に約4700名の回復者の方々が生活しています。少ないながらも療養所を出て社会復帰した方々もいます。1907年(明治40年)から1996年(平成8年)まで、90年にわたり患者は国の強制隔離政策の対象とされてきました。


さてハンセン病は、らい菌という細菌によって引き起こされる慢性の感染症です。
古くから「らい病」とか「らい」といわれていましたが、らい菌を発見したノルウェーのハンセンの名をとって現在はハンセン病と呼ばれています。主に末梢神経と皮膚が侵され、感覚異常、皮膚のただれ、視力障害等の病的症状が現われます。
しかし、この病気そのもので死に至ることはありません。上の写真からも後遺症の一端が伺えます。

ハンセン病の感染力・発病力は極めて弱くそのことは最初に法律を制定した1907年(明治40年)当時から判っていたことです。当時の帝国議会貴族院での政府委員の答弁でもそのことを認めています。
90年にわたる患者隔離政策において、療養所の職員の中から一人のハンセン病患者も出ていないことからも、感染力・発病力が弱いことがわかります。衛生状態の改善により発生率も大幅に低下します。
ですから、すべての患者・感染者を一生にわたって隔離する必要性など全くありませんでした。

第四九回帝国議会貴族院
政府委員・赤木朝治の答弁

昭和六年二月一四日

「癩菌ト申シマスモノハ非常ニ 伝染力 カラ申シマスレバ 弱イ菌 デアルヤウデアリマス、従ッテ癩菌ニ接触シタカラト言ッテ、多クノ場合 必ズシモ発病スルト云フ訳デハナイ ノデアリマス」
「癩ニ罹リ易イ体質ヲ持ッテ居ル者ガ、何等カノ場合ニ於イテ癩 菌ニ接触シタト、斯ウ云ウコトデナケレバ理論ガ立タナイヤウデアリマス」

プロミン注射風景

治療については元々自然治癒する場合もありますが、1943年(昭和18年)に特効薬プロミンの治療効果が発表されたことで、速やかに治癒する病気となりました。
治療により、らい菌の感染力は更に弱まります。

1950年代以降、療養所内の患者の多くが菌陰性となりました。飲み薬の治療薬DDSの登場により、在宅での治療も容易になりました。


欧米を中心に国際的に見ると、治療薬プロミン登場以後は早期発見・早期治療と人権の尊重を主眼とする開放処遇や外来治療政策が次々と推奨されていました。

戦後の国際会議

1951年(昭和26年) 第3回 汎アメリカらい会議
1952年(昭和27年) WHO らい専門委員会
1953年(昭和28年) MTL 国際らい会議

1956年(昭和31年)に行われ、我が国政府も参加した「らい患者の救済と社会復帰のための国際会議」では、全ての差別的法律の撤廃、在宅医療の推進、早期治療の必要性、社会復帰援助等をうたったローマ宣言が採択されました。

患者の保護及び社会復帰に関する国際会議決議(ローマ宣言)の要旨
1956年(昭和31年4月18日)

<1>
A. 差別待遇的な諸法律は撤廃
B. 偏見と差別を除去するための広報宣伝活動の必要性

<2>
A. 早期治療、患者が自宅に留まることの許可
B. 限定的入院措置
C. 児童の予防施設への入所の限定
D. 患者の保護・社会復帰のための人道的・社会的・医学的援助の必要性

1958年(昭和33年)東京で開催された「第七回国際らい学会議」では、強制隔離政策を採用している国がその政策を全面的に破棄するよう推奨されました。このように国際的にはハンセン病を特別視しない医療政策の必要性が次々と強調されたのです。

第7回国際らい会議 社会問題分科会技術決議の要旨
1958年(昭和33年)

「我々が目ざさねばならぬのは、『らいは隔離すべき病気であり、常に特別な援助が必要である』 という考えを打ち砕くことである」
「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する」
「病気に対する誤った理解に基づいて、特別ならいの法律が強制されているところでは、政府にこの法律を廃止させ、登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要がある」